【協同の歴史の瞬間】〔第85回〕1932年(昭和7年)5月27日 東京医療利用組合 設立認可される――奇蹟的な設立認可監修/堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

監修 堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

協同組合や農協界にとって重要なターニングポイントとなった記録をひもとく。

東京医療利用組合の設立は、医師会の激烈な反対運動が起き、申請から1年経過しても許可されなかった。それが認可されたのはどのようないきさつだったのか。

さらに、東京医療利用組合は、中野組合病院を中心とし、医療組合のモデルとして、その全国運動の拠点となった。その歴史をみていく。

1932(昭和7)年 第28回全国産業組合大会 緊急提案の上程について

1931(昭和6)年4月、「有限責任 東京医療利用組合」設立趣意書が表面化するや、日本医師会や東京府医師会に衝撃を与え、設立許可をめぐって激烈な反対運動が巻き起こった。その衝撃の大きさは次の医療業界紙の論説要旨が物語っている。

今日実費診療所問題が、医界を悩ましている以上に近き将来の我医界に動揺を与ふべしと予想さるゝものに医療組合運動がある。医療組合員が経営の主体であると同時に組合員たる患者自身が当然監督者たらんとするもので、この自主的立場をとると言ふことが近代人に歓迎さるべく且つその背後には産業組合が母胎として凡ゆる後援を吝(お)しまぬであらうから、その範囲の拡大性に於て、その事実の組織的なる点に於て、現存する実費診療所の比ではないのである。斯くして一般開業医は官公私立の大病院に上層階級の患者を吸収され、中産階級とも言ふべき勤労大衆を組合病院に吸収さるゝとせば、その存在を全く失ふに至る慮(おそれ)なしとせず……」(昭和6年5月1日、日本医事新聞)。

医療組合への激しい憎悪と開業医がそれを自分たちの死活問題として考えている、ということが読み取れるが、当時、東京医療利用組合の設立に向けて実務を担当していた黒川泰一はその理由を次のように述べている。

産業組合の設立認可についての権限は府県知事にあったのであるが、医療についての主管は衛生課長である。府県の衛生課は警察部に属している。そして中央は警察権を握る内務省の衛生局につながっていた。知事の任免は内務大臣である。この権力機構は、ことが医薬、衛生に関する限りは医師会べったりが普通なことであった。だから医師会幹部にとって、医療組合の生殺与奪は、自分たちの手中にあると思っていたようである。それだけに、医療組合が開業医制の批判、すなわち、医師会への叛旗をかざしての進撃に、いかにいきどおりのはげしかったかが想像できる。(『沙漠に途あり―医療と共済運動50年』)。

協同の歴史の瞬間

これに対し産業組合陣営は、1932(昭和7)年4月25~26日大阪市で開催された第28回全国産業組合大会において、産業組合中央会東京支会からの緊急提案として、「東京医療利用組合設立許可促進」の件が上程された。

『乙 支会及会員提出問題  19 医療設備の利用を目的とする産業組合の設立許可申請書にして適正なるものは地方長官に於て速やかに許可せらるゝやう主務省へ建議の件(決議可決)』

この提案の説明は賀川豊彦自らが行った。このため、医師会の反対運動は、日本医師会を先頭とする全国的なものとなったのに対し、片や産業組合側も全国大会の決議により、全国的運動へとひろがっていったのである。

ただ時あたかも商工業者による反産運動が激化するなかで、医師会の医療利用組合問題も盛り上がり、東京医療利用組合の申請から1年経過しても、許可方針の決定をみなかった。それどころか医師会の政治的な策動は、内務省衛生局医務課で、許可申請書類を握り潰しにしようとする情勢にあることが伝えられるに至ったのである。こうした情勢を大転換させる事件が勃発した。昭和7年の五・一五事件である。

東京府知事の藤沼庄平は、第一高等学校時代、新渡戸博士が同校の校長をしていたこと、賀川の活動もよく理解していたことから、「設立申請を許可する方針を堅持していたようであったが、知事としての政治的立場もあり、反産運動のはげしい時代なので、医師会の反医療組合運動の政治問題化するおそれもあったので、形勢をみていたため許可がおくれたのであった。五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺され、その政変にともなって藤沼東京府知事が、警視総監に栄転することになった。藤沼は東京府知事としての最後の日、1932(昭和7)年5月27日に府庁の玄関に北島日本医師会長らが頑張っているのを出しぬいて、東京医療利用組合の設立許可を決裁し裏門から脱出した」(『協同組合を中心とする日本農民医療運動史』、以下『運動史』)と藤沼知事の苦悩と最後の必死さが伝わってくる。こうして東京医療利用組合は、申請以来1年1か月を費やし、奇蹟と呼ぶに相応しい格好で設立認可を獲得できたのである。

さらに、「許可の報に接したとき、発起人の一人根岸元治は新警視総監藤沼に対し感謝の礼状を送ったところ、その返事に藤沼前知事は「正しき者遂に勝利を可得候」と書いた返事を送ってきた。この書面はいまなお中野組合病院(筆者 現東京医療生活協同組合 新渡戸記念中野総合病院)に、賀川豊彦を指導者とする運動に対する正義感を示した記念品として、保管されている」(『運動史』)と続いている。ここでも藤沼前知事が医療利用組合を支持し期待していたことがわかる。

1933(昭和8)年12月17日 中野組合病院 落成式が挙行される――近代的な協同組合医療組織のさきがけとなる

こうして認可された東京医療利用組合は、9月に内科、小児科、外科、産婦人科、歯科からなる新宿診療所として開設された。ところが当初は、組合員の利用が増加したものの、新宿駅から徒歩20分も要することから患者数は次第に減少し、回復の兆しは見えなかった。そこで黒川泰一は住んでいた中野に注目し、「東京医療利用組合西部支部設立準備会」を立ち上げ、座談会等を開催して組合員加入推進に尽力した。その一方で、国電中央線の中野駅南口徒歩5分の土地を買収、1933(昭和8)年8月28日に上棟式を挙行して工事が始まり、12月17日に落成、同日に中野組合病院の落成式が行われた。

薬価などが一般開業医の半額であったため、利用者は開院当初から殺到した。このため1935(昭和10)年9月に拡張工事に着手し、12月に完了した。さらに、同12年6月に第3病棟を新設し、同13年12月には3階建ての病床450を持つ産院が完成した。産院は、全国組合病院に先駆けて建設されたものである。かくて中央線沿線でも有数の総合病院にまで発展した。

このような展開について、『運動史』は、「かくて東京医療利用組合は、中野組合病院を中心とし、医療組合のモデルとして、またその全国運動の拠点となった。病院は、患者の疾病治療だけを目的としないで、開業医師が実施することができない施設、たとえば家庭訪問看護婦制度の実施、巡回診療相談、臨海学校、家庭医学講座の実施など、すべて組合員の保健活動に全力をつくした。こうして賀川豊彦を中心とする近代的な協同組合医療組織――既設の産業組合組織にのみ偏しない――のさきがけを達成したのである」と記述している。

東京医療利用組合の設立は、産業組合の使命を高揚し、産業組合運動を大きく前進させた、のみならず、医療の質の向上にも貢献したということができよう。

参考文献/『協同組合を中心とする 日本農民医療運動史』(全国厚生農業協同組合連合会、1968年) 黒川泰一『沙漠に途あり―医療と共済運動50年』(家の光協会、1975年)

公開日:2022/12/01 記事ジャンル: 配信月: タグ: /

ページトップへ