【トップ対談22】組合員・地域とともに(上)ゲスト/大坪輝夫 (宮城県 JA新みやぎ 代表理事組合長)
第22回ゲスト
大坪輝夫
宮城県 JA新みやぎ 代表理事組合長
インタビューとまとめ
石田正昭
三重大学 特任教授
京都大学 学術情報メディアセンター研究員
JA新みやぎ(新みやぎ農業協同組合)
2019年7月1日に宮城県北部に位置する5つのJA(みどりの、栗っこ、南三陸、あさひな、いわでやま)が合併して誕生した。新しいJAを共に創るという意味を込めて、基本理念に“共創”を掲げている。
○組織の概況
組合員数 49,206
(正組合員34,167、准組合員15,039)
役員数 49(常勤・非常勤含む)
職員数 1,155(有期職員含む)
○地域と農業の概況
栗原市、気仙沼市、南三陸町、登米市津山町、富谷市、大和町、大郷町、大衡村、大崎市岩出山・鳴子温泉・鹿島台・松山・田尻、美里町、涌谷町の3市5町1村6地区をエリアとしている。農業は、『ひとめぼれ』『ササニシキ』などの米を中心に、宮城県が誇るブランド牛「仙台牛」の一大産地として、またトマトやキュウリ、ネギ、シイタケ、ホウレンソウ、花卉類など多品目の園芸作物が生産されている。
○JAデータ
設立 2019年7月1日
本店所在地 栗原市築館字照越大ケ原43番地1
出資額 102億円
貯金額 3,473億円
貸出金 729億円
長期共済保有高 1兆3,888億円
受託販売品取扱高 282億円
購買品供給高 122億円
(2022年3月末時点)
“共創”のJAづくり
“共創”には、合併した5JAが新しいJAを「共に創る」という意味が込められている。緑の「み」(みどりの)、暮らしの「く」(栗っこ)、未来の「み」(南三陸)、愛の「あ」(あさひな)、命の「い」(いわでやま)をつなぐような斬新なJAづくりを目指している。
プロフィール
石田正昭
いしだ・まさあき/1948年生まれ。東京大学大学院農学系研究科博士課程満期退学。農学博士。専門は地域農業論、協同組合論。元・日本協同組合学会会長。三重大学、龍谷大学の教授を経て、現職。近刊書に『JA女性組織の未来 躍動へのグランドデザイン』『いのち・地域を未来につなぐ これからの協同組合間連携』(ともに編著、家の光協会刊)。
大坪輝夫
おおつぼ・てるお/1949年生まれ。1968年、宮城県小牛田農林高校を卒業後に就農。1992年、箟岳(ののだけ)農協(当時)の専務理事、2002年にJAみどりの(当時)の専務理事、2011年に代表理事組合長を務める。2019年に合併により誕生したJA新みやぎ代表理事組合長に就任し、現在に至る。
「米単作経営」から脱皮する
石田:私は1948年生まれ、組合長は49年生まれです。
大坪:同世代ですね。団塊の世代として親しみを覚えます。私が地元の小牛田農林高校に入ったのは65年ですが、当時、その高校の隣りには宮城県の農業機械研修施設がありました。その建物の玄関に大きな懸垂幕があり、米増産運動のスローガンが掲げられていたことを覚えています。
石田:開田ブームが起こっていました。「宮城のササニシキ」は全国屈指の有力品種でした。
大坪:当時はまだ『ササシグレ』の時代でした。そのあと『ササニシキ』が出てきて、米増産運動に拍車がかかりました。そのさなかに就農したので、当時から今日に至るまで、ずうっと減反政策に翻弄されてきました。とくに宮城県は米単作地帯だったので影響が大きかった。
石田:米に代わる作物の導入が求められました。
大坪:米プラスアルファの複合経営。その複合も、地域複合がよいか、個別の複合経営がよいか、盛んに議論されましたが、いまだに方向性が定まりません。
石田:冬場はどんな仕事をしていたのですか。
大坪:関東へ出稼ぎに行く人もいましたが、朝早くマイクロバスに乗って、仙台の大きな住宅団地の造成現場に出ていく人も結構いました。塩竃や石巻の水産加工場へ出かける人もいました。米づくりとそういう日雇い労働は結構マッチするんですよ。
石田:当時の米価も今とは違っていましたからね。
大坪:米づくりと日雇い労働で十分に生活できました。68年に卒業しましたが、私も迷うことなく翌日から親父と一緒に歩行型耕うん機を使って、本田の準備にとりかかりました。当時の経営面積は2町5反歩でしたが、世間並みのお金を残せたと思います。
ただ70年から75年にかけての頃ですが、わが家でも1割以上の減反を余儀なくされ、水田で何をつくったらよいのか、大いに悩みました。
石田:そうしたなかで野菜づくりを始められた?
大坪:そうです。最初は露地の夏秋キュウリ。その後、80年からはイチゴのパイプハウス栽培を始めました。
同じ頃、集落でも転作をどう進めるかが議論となり、86年に集落の仲間4人と転作組織を立ち上げました。トラクター、汎用コンバインを装備し、水田作業を請け負うとともにミニライスセンターも始めました。集落には約100町歩の水田がありますが、そのうちの20町歩から30町歩くらいまで、麦・大豆の転作を請け負いました。
石田:このあたりは湿地帯が多く、麦づくりでは苦労されたのではないですか。
大坪:場所的には北上川と迫川の合流地点に位置しますが、たまたまわが集落では昭和の初めに圃場整備が行われ、2反歩区画と用水・排水が完備されていました。乾田化しやすい恵まれた土地だったので、麦・大豆によるブロックローテーションに積極的に取り組めたのです。
「農協人」へ転身する
大坪:同じような生産組織があちこちにできて、切磋琢磨しながら伸びていこうとしました。旧箟岳農協は約千戸の農協でしたが、10くらいの生産組織ができました。お互いに情報交換をしながら、手伝ったり、機械を融通したりしました。いまから考えても若者が活躍できる面白い時代でした。
石田:そうしたなかで、92年に旧箟岳農協の専務理事になられました。43歳の時です。
大坪:たまたまですが、旧役員が総退陣するという事態が起きました。中央会の指導もあって新しい体制をつくることになり、青年部OBという立場から推挙されたのです。
石田:周りから信頼されていた証拠ですね。
大坪:生産組織だけでなく、イチゴ栽培でも農協との結びつきが深かったのです。営農指導、生産資材にからんで農協の営農部署によく出入りしていました。青年部活動においても然りです。
石田:旧役員の考え方とは一線を画し、新しい感覚で農協と連携しながらやっていくんだという姿勢が、より鮮明だったというわけですね。でも、常勤となると、わが家の農業経営も変えていかなければなりません。
大坪:ちょうどその頃に家内が健康を害してしまい、イチゴ栽培をやめようと考えていた矢先でした。生産組織についても、仲間から「こっちは俺たちがやるから、お前は農協へ行け」と、力強いお言葉をいただき、それに背中を押された形となりました。
石田:箟岳農協の専務理事に就任以来、およそ30年間、農協役員をお務めです。その間に2回の合併を経験されています。
大坪:実は、JAみどりの、JA新みやぎ、という2回の合併の前に、箟岳、涌谷(わくや)、黄金(こがね)という涌谷町内3農協の合併の話がありました。ですが、その話は最終的に不首尾に終わり、96年、より広域のJAみどりのを設立することになったのです。
石田:涌谷、南郷、鹿島台、松山、小牛田(こごた)、田尻の6町10JAの合併でしたね。たいへんなご苦労があったかと思います。
大坪:合併ってよく結婚に例えられるのですが、結婚する前はお互い、ああしようね、こうしようねと誓いあうのですが、いざ一緒になってみると、あれこれ違いがあらわになってきます。その違いを乗り越えるのに何年もかかってしまいます。
石田:銀行の合併も、合併後に入行した職員たちが役員になるまでは、一つの銀行になり切れないといわれます。
大坪:JAも同じです。一体化には何年もかかるのです。しかし、変化の大きい、そして厳しい時代に、そんな悠長なことはいってられません。今回のJA新みやぎの場合も、最初の3年間は地区本部ごとに収支均衡を図るという、いわゆる地区本部制を採用しましたが、その後は事業本部制へ移行することが決まっていました。移行日は今年の4月1日です。
移行に当たって、地区本部の収支均衡は廃し、5人の地区本部長理事(常勤)も廃します。これに伴い役員の定数も削減します。
時代に即応したJAづくり
石田:JA新みやぎは海から山までたいへんな距離があって、しかも途中がつながっていない。事業本部制で一体化するといっても簡単ではありません。
大坪:沿岸部、平場、山手の3つに分かれていて、気候も違うし、米の品種も違います。大規模経営もあれば、半農半漁の営農形態もあります。
しかし、合併というのは、それぞれの強みを活かせばいい話であって、JAがその意思さえちゃんと持っていれば、最後は人事交流で解決できると思っています。それが合併効果といわれるものです。この地区にないものを他の地区の人でもいいですし、JAの人的・物的資源を総動員して支援していくのでもいい。そんな“共創”のJAづくりを目指しています。
石田:なるほど。
大坪:4月から事業体制が変わります。営農・経済も、金融・共済も、事業本部制の導入によって高位平準化を目指します。地区をまたいだ職員の異動も積極的に進めます。もちろん職員の個別の事情は勘案しますが、適材適所の方針で臨みます。
基幹支店長には、代表機能とか地域とりまとめ機能をこれまで以上に担ってもらいます。地区選出の非常勤役員には、行政対応とか地域農業再生協議会対応の仕事を担ってもらいます。
事業本部制に移行しても、地区の営農センターや基幹支店の職員数ならびに機能について、削減したり廃止したりすることは考えていません。むしろ、営農センターや基幹支店の役割は、従来よりも大きくなるだろうと考えています。合併して不便になった、人がいなくなった、といわれないようにします。
現在は32支店体制ですが、これを23支店体制に移行します。支店の削減に当たっては、基幹支店の機能強化によって組合員・利用者に迷惑をかけるようなことはいたしません。
石田:いわでやま地区だったと思いますが、購買店舗併設型金融店舗車を走らせていますね。
大坪:いわでやま地区だけではなく、栗っこ地区の山間部でも走らせています。これらは継続していきますし、移動範囲も広げる方向で現在調整中です。
石田:JAバンクは「育てる金融」を掲げています。お金を貸すだけではなく、貸出先の経営支援にも乗り出そうとしています。
大坪:従来は「貯金をどんどん吸収せよ」が基本ポリシーでした。しかし、これからは人員もノウハウも経営支援にシフトしていきます。JA新みやぎもその方向を目指しています。
投資信託とか、遺言信託とか、従来よりも一歩踏み込んだ機能の提供にも心がけます。これまでは地区によっては人員的に、あるいは能力的にこなせない地区もありました。そういう地区をなくしていくのが「高位平準化」の意味するところです。とくにあさひな地区は、宮城県で唯一の人口増加地域ですから、多くの実績を残さなければなりません。
JA新みやぎにはさまざまな課題があって、残念なことですが新しい取り組みを置き去りにしてきた面があります。今後はそのようなことがないように心がけます。
(以下、6月配信に続く)
コラム
地区本部制と事業本部制
広域合併には地区本部制がよいか、事業本部制がよいか、という議論が必ずつきまとう。
地区本部制は、組合員からみて大きな変化はなく、納得しやすい合併方式である。その反面、「合併しても何も変わらない」「なぜ合併したのか」という、そもそも論が噴出しやすい。
大きな犠牲を払って広域合併するのであれば、それにふさわしい合併効果が得られるものでなければならない。この観点に立つと、トップのガバナンスが効きやすい事業本部制の導入が必要となる。その反面、組合員からは「遠くなった」「話が通じない」といったクレームが出やすい。
JA新みやぎの場合は、最初の3年間は地区本部制、その後は事業本部制へ移行という、激変緩和措置がとられた。