【協同の歴史の瞬間】
賀川豊彦の「乳と蜜の流るゝ郷」(最終回)
1935(昭和10)年12月号 又平の土地等、競売にかけられる
ヤギの乳でチーズを作る講習会を開く
桧原湖畔に結核療養所をつくる
全国産業組合大会の折、兄彦吉と仲直りする
監修/堀越芳昭 山梨学院大学 元教授
東助を苦しめた平泉又吉は懲役に処せられた。父又平が東助のところに来て、又吉のせいで土地等が競売にかけられるので宅地と家だけでも安く落としてくれと、依頼する。競売当日、東助と島貫伊三郎はことごとく競り落とした。
耶麻郡一帯が飢饉の恐れがある中で、東助はその対応に追われる。村のヤギの数が大きく増加したことを受けて東助は、ヤギ乳チーズの製造法を学ぶ講習会を開く。こうしたなかで村が飢饉から解放されつつあることを確信する。
出稼ぎに出ていた女工たち十数人が呼吸器を悪くして村に帰ってきていた。これを見た東助は、桧原湖畔に結核療養所をつくることを計画した。産業組合青年連盟、耶麻郡産業組合連合会等と力を合わせ、桧原湖畔の楽土をつくりだす。
全国産業組合大会に出席した東助は、信用組合が生命保険を兼営せねばならぬこと等を六千人の参加者に訴えた。その後公園のベンチで休んでいると長い間仲違いしていた兄の彦吉が現れ、特約組合に関係していたことを謝る。東助は、彦吉の手を握り、日本を救おうと思えば、産業組合の手によるほか道はない、と応じ、仲直りする。
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