【協同の歴史の瞬間】〔第84回〕1931(昭和6)年1月10日 東京医療利用組合設立に向けての第1回会合が開催される監修/堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

監修 堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

堀越芳昭 山梨学院大学 元教授

協同組合や農協界にとって重要なターニングポイントとなった記録をひもとく。

今回は、昭和初期の産業組合運動を大きく前進させた東京医療利用組合の設立に焦点を当てる。設立に向けてどのような一歩を踏み出したのか、さらに設立趣意書はどんな内容であり、どんな特徴をもっていたかをみていきたい。

1931(昭和6)年4月 有限責任 東京医療利用組合 設立趣意書を公表

昭和初期の農業恐慌期において産業組合の使命を高揚し、産業組合運動を大きく前進させたものとして東京医療利用組合の設立を挙げることができる。

東京医療利用組合の設立は、主唱者である賀川豊彦の「農村の医療地獄の解決は、政府の施策を待って得られるものでなく、医療組合の全国的設立推進をはかる以外に道はない」「自ら率先して医療組合をつくり、その場所も世間に最も目につきやすい東京につくる」との考え、判断によるものであった。

設立に向けての第1回会合は、1931(昭和6)年1月10日、京王線上北沢駅近くの賀川の仕事場(通称「森の家」)で開かれた。前日に賀川からの電報を受けてその会合に駆け付けた黒川泰一(賀川の指導を受け協同組合運動に従事するも夜学の早稲田専門学校在学中に治安維持法違反容疑で検挙された。当時は保釈出所中の身であった)は、その様子を自著『沙漠に途あり―医療と共済運動50年』で次のように述べている。

わたしが、「森の家」に着くと、すでに賀川を中心に数人の人々が集まって、何事かを話し合っていた。その顔ぶれは、YMCAの牧師石田友治、松沢病院に勤務中に精神病患者の作業治療、開放治療を提唱し、新療法の開祖として有名な精神科医師加藤普佐次郎、アメリカから賀川を助けるために帰国し、松沢教会の牧師となっている小川清澄、阿佐谷教会の牧師高崎能樹、江東消費組合専務の木立義道らであった。

話し合いが終わると、賀川はわたしに向かっていった。「医療組合をやることにしたから、木立君と一緒になって、やってくれ給え。」

わたしはべつに異存はなかった。しかし、賀川のいう「医療組合」というのは、はじめてきく言葉であったから、とまどうのも無理はない。(略)先輩の木立にきいてみると、「病院を協同組合の組織でやるということらしい。自分もはじめてきいた話なので、よくはわからないが、よく研究してすすめましょう。」ということであった。

同年2月19日、本所基督教産業青年会館内に創立事務所を開き(その後東京西部の四谷区に移る)、実務は木立義道と黒川泰一が担当した。二人は東京市内の軽費診療機関を調査して計画の参考にするとともに産業組合中央会岩手支会長の新渡戸稲造博士を組合長、賀川を専務理事とするなど設立に向けての準備を急いだ。そして設立の準備が完了した5月2日付をもって、産業組合法に基づき、東京府知事に東京医療利用組合の設立許可の申請を行った。

協同の歴史の瞬間

さらに5月11日には、組合設立の趣旨をひろく有志に訴えるため、神田区美土代町の東京基督教青年会館(YMCA)で、創立発起人会を開催した。この時の様子を黒川は前掲書で“その日の参会者は150名ほど、新渡戸博士の感激的な挨拶があり、賀川より医療利用組合運動のめざすところについて、熱のこもった講演があった。(略)いまさらながら、この運動の重要性を教えられ、深い感動が会場いっぱいにみなぎっていた”と記述している。

翌5月12日の日刊新聞各紙は、このニュースを大々的に報道した。この企てを歓迎する記事として掲載されたのである。マスコミが歓迎したのは東京医療利用組合がめざそうとした方向・目標にあったと思われる。それを具現化した「設立趣意書」をみていきたい。

「有限責任 東京医療利用組合」設立趣意書

疾病にたいする治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として貧富、高下、都鄙(とひ)の別なく享受せられなければならぬことは、言うまでもありません。古来、医術が仁術として為されて来たことは、その本来の性質から見て当然なことであります。然るに、今日の社会に於ては、凡(あら)ゆるものが然るが如く、医術も亦、営利制度の下に運営されて居る結果、経済的に治療費の負担に堪えない者は、医療の保護を受けることの出来難い実情におかれています。(略)

ここに計画せる協同組合病院は、かかる医療制度にかわるに、医は仁術なりとの本来の精神に新しき経済組織をあたえ、もって組合員の協同の福祉のために、運営せんとするものであります。すなわち組合員の協同経済による、医療ならびに保健の設備をなし、信頼するに足る医師、看護婦、産婆などをおいて懇切なる治療、保健の指導援助をなさんとするものであります。(略)

組織化せる保健運動――これ本組合の直接目指すところの目標でありますが、私どもが医療事業を特に、協同組合の形態において経営せんとするゆえんのものは、この運動が、国民のあらゆる層に及ぼし得べき性質のものであり、かつ、今後の社会的施設が、国民の保健を重要なものとして意識されるかぎり、新社会の基幹となるべきものと信ずるが故に、これが社会単位の組織に、大きな意義を認めるからであります。

悩みおおい社会不安の時代に、この新しき私どもの目指す挙に、賛同協力されんことを、敢えて訴ふる次第であります。

昭和6年4月

一部、略しながら引用したが、「医は仁術なりとの本来の精神」をたいせつにし、「組合員の協同経済によって信頼するに足る医師、看護師等により懇切なる治療、保健指導援助をする」という東京医療利用組合の姿勢・目標を十分に読み取ることができる。そして自らの運動が「新社会の基幹となるべきもの」との確信も読み取れる。営利制度の下で運営されている医療事業が多くの国民を医療保障の圏外に追いやるなかで日刊新聞各紙がこの社会的企画を歓迎したのも当然であったろう。しかし、この運動に大きな反対運動が起きてくる。次回(12月配信)はそれを見ていく。

参考文献/『協同組合を中心とする日本農民医療運動史』(全国厚生農業協同組合連合会、1968年)、『沙漠に途あり―医療と共済運動50年』黒川泰一(家の光協会、1975年)

公開日:2022/11/01 記事ジャンル: 配信月: タグ: /

この記事をシェアする

twitter
facebook
line
ページトップへ