【協同の歴史の瞬間】〔第83回〕1933(昭和8)年11月24日 「全日本商権擁護連盟」設立される(下 その2)監修/堀越芳昭 山梨学院大学 元教授
監修
堀越芳昭
山梨学院大学 元教授
協同組合や農協界にとって重要なターニングポイントとなった記録をひもとく。 前回は「1935(昭和10)年になると、反産運動も産業組合の反産運動対策運動も大きくその様相が変貌していく」という記述で締めた。反産運動、そして産業組合の反産運動対策運動の顛末とは……。
1936(昭和11)年5月26日~28日 農村関係重要三法 公布される
反産運動・産業組合の反産運動対策運動それぞれの運動の「様相が変貌していく」大きな要因となったのは、第67回帝国議会(1934<昭和9>年12月26日~1935年<昭和10>年3月26日)において農村関係重要三法案―<産繭処理統制法案><米穀自治管理法案><肥料業統制法案>が提出されたことによる。これら3法案は、繭・米・肥料という農民にとって重要な品目について、価格の安定を実現するために産業組合の関連事業を発展させるという内容を含んでいたため、繭商人、米穀商、肥料商を中心として商業者による議会、官庁、世論への法案反対運動が激しく展開されていく。
ここでは3法案のうち、「米穀自治管理法案」をみていこう。この法案は、豊作時の過剰米を統制するために、内地のみでなく朝鮮・台湾まで含めた一貫した体制をつくることを目指したものであり、市町村(朝鮮・台湾もこれに準じた地域)の単位で米穀統制組合をつくらせて、豊作で米価の下落した時に米を貯蔵させ米価が一定以上に騰貴した場合に売らせるというように、統制組合による過剰米の管理体制をつくろうとするものであった。それは同時に政府買い上げの場合の国庫負担の軽減も狙っていた。また、政府は市町村に販売組合がある場合、販売組合がなくても農会がある場合には、これらに統制組合の機能を代行させることとしていた。産業組合陣営は、この法案を歓迎し、より一層販売統制における産業組合中心主義の徹底を要求したのに対し、米穀商、全日本商権擁護連盟の側はこの法案に絶対反対の態度を固め、反産運動を強化していく。
昭和10年2月8日、全国米穀商組合連合会は全米穀商大会を国技館において開催し、米穀自治管理法案絶対反対を決議するとともに当日を米穀祝日として全国一斉に休業した。さらに同連合会は3月11日、国技館において全米穀商第2回大会を開催し、再び米穀自治管理法案反対を決議した。同日、肥料商は上野精養軒で緊急大会を開き、肥料業統制法案の撤回を決議した。翌3月12日、全日本商権擁護連盟は全国40支部代表者協議会を開催し、上記3法案が産業組合の拡大強化をはかり、配給機構の変革を意図するものであるとの見地から、産業政策の調整確立のため商権擁護に関する主張と決議を行い、関係官庁に陳情を行った。
これらに対し、産業組合陣営も全国農村産業組合協会(農産協)主催による全国農村産業組合大会を開催した。3月4日の第1回大会では、地方産業組合代表者1,300名が参集し、米穀自治管理法に対する宣言並びに決議、産繭処理統制法に対する決議を行い、農林大臣等に陳情を行った。さらに3月11日の第2回大会では、6,000名が参集して日本青年館に収容しきれなかったため、青山会館を第2会場として、3回にわたって大会を開催。宣言・決議を行い、総理、農林、大蔵、拓務の4大臣各政党に陳情、さらに7大新聞社に陳情を行った。
産業組合青年連盟もこれらの大会に合わせて非公式に臨時大会を開き、別個に宣言・決議を発表するとともに、各県1名ずつの代表が1か月間日本青年館に合宿し、代議士の自宅を訪問するという戦術を取り運動を盛り上げた。
こうした対立のなかで、3法案とも成立しなかった。ここでも米穀自治管理法案についてみていく。同法案は、衆議院において2月26日に上程され委員会に付託された。委員会の構成をみると、政友会は農村側委員が優勢であったが、民政党は都市側委員が圧倒的であったため、委員会の行方が心配された。委員会は都市側委員と農村側委員がそれぞれの主張を展開したため予想通り紛糾し、政・民両党間の共同修正案が成立したのは会期切れも迫った3月23日夜で、翌24日午前中に本会議を開いて可決するというあわただしさであった。貴族院に送付されたものの会期はあますところ1日しかなく、審議未了に終わってしまった。農村関係重要法案の成立は第69回帝国議会を待たねばならなかった。
第69回帝国議会(1936<昭和11>年5月4日~26日)は、「2・26事件(昭和11年2月26日)直後の非常時局に際して召集された特別議会であり、日支開戦に近づく過程において、国の経済の統制化、軍事化が強く要請された」ため「米穀自治管理法案外二件委員会の衆議院委員中には、(略)反産運動の闘士渡辺銕蔵博士をも含み、また院外に全国米穀商組合連合会、全日本商権擁護連盟、商工会議所を中心とするはげしい反対運動があったにもかかわらず、第67議会の場合とは異なり、社会情勢の現実の要請によって議論が決定され、法案は衆議院を通過し、さらに貴族院も通過した」(『産業組合発達史』第4巻)のである。 かくして農村関係重要三法<産繭処理統制法5月26日公布><米穀自治管理法5月28日公布><重要肥料業統制法5月28日公布>が成立した。
反産運動も産業組合の反産運動対策運動も当時の社会的雰囲気のもとで沈静化していくが、双方の運動について農業開発研修センター会長などを歴任された桑原正信氏は「夫々(それぞれ)の立場においての自己主張があるだけであって、組合員すなわち農業者の立場は全く無視され、従って、双方とも経済的ないし商業的機能を担当しながら、その機能上からの組合員・農業者に対する効率の問題は、片や反産運動、片や産組運動という運動の中に埋没されていたのではないか」と指摘されている。
(終わり)
参考文献/『産業組合発達史』第4巻 産業組合史刊行会(1966年)
『産業組合中央会史』全国農業協同組合中央会(1988年)
『協同組合の名著』第9巻(千石興太郎・賀川豊彦) 家の光協会(1971年)
公開日:2022/10/03 記事ジャンル:協同の歴史の瞬間 配信月:2022年10月配信 タグ:協同の歴史 / 役職員学習